伊万里の磁器
1.伊万里焼(古伊万里)
2.鍋島(鍋島焼)
3.日本遺産に認定
江戸時代の初期(1610年代)から終り頃にかけて肥前で焼かれた磁器が伊万里焼(古伊万里)です。
主に佐賀県の有田や塩田、長崎県の波佐見、三川内などでつくられ、伊万里津(港)から船で各地へ積み出されたため、港の名前をとって伊万里焼と呼ばれました。
日本で最初の磁器である伊万里焼(古伊万里)は文禄・慶長の役(1592~98年)のあと朝鮮半島から来た人々の手により有田町中部付近でつくり始められました。
1616年、李参平が有田町の泉山で良質の陶石を発見すると、有田町東部に窯場の中心が移りました。
1640年代までにつくられたものを「初期伊万里」と言います。
中国では明から清へ王朝が交代した影響で、世界最高水準を誇った中国磁器が17世紀中頃から後半にかけて、海外へ輸出されなくなりました。
代わりにオランダ連合東インド会社(VOC)が目を付けたのが日本の伊万里焼(古伊万里)で、技術革新と高い芸術性を武器に17世紀後半から18世紀前半までの期間、200万個以上の磁器が輸出されています。
伊万里の港から長崎の出島を経由し、東南アジアや中近東、ヨーロッパまで運ばれた絢爛豪華な古伊万里(オールド・イマリ)はヨーロッパの王侯貴族の間で貴重品として珍重され、熱心なコレクターだったプロイセンのアウグスト強王は大壺一対と龍騎兵一箇隊を交換したという逸話も残っています。
江戸時代、延宝3年(1675年)から廃藩置県(1871年)までの約200年間にわたり、肥前磁器の粋を結集し大川内山(伊万里市)でつくられた焼き物が鍋島(鍋島焼)です。
山水画を思わせる三方を険しい山々に囲まれた特異な地形が天然の城壁となり、大川内山は高度な技術を守るのに適していました。
鍋島(鍋島焼)は江戸の徳川将軍家や幕府の要人、諸大名への献上や贈答のほかは、藩主が城中で使用するためだけにつくられ、一般に販売されることはありませんでした。
将軍家への献上が功を奏し、鍋島藩は外様大名であったにもかかわらず、取り潰しや領地替えを命じられることがなかったと言われています。
妥協を許さない精緻な造形と優雅な作風は近世陶磁の最高峰に位置づけられており、現在でもおよそ30の窯元により伝統や技法が綿々と受け継がれています。
《鍋島の種類》
Ⅰ鍋島染付
白磁に呉須と呼ばれる藍色の顔料で描かれたもの。
Ⅱ色鍋島
白磁の肌に薄い染付と赤・黄・緑の三色を基調として絵付けされたもの。
Ⅲ鍋島青磁
深い青緑色の青磁釉薬を全体にかけて焼き上げたもの。
《いまの鍋島》
江戸時代の伊万里焼(古伊万里)の伝統を受け継いでいるのが「有田焼」。
鍋島の伝統を継承しているのが大川内山で焼かれている現代の「伊万里焼」です。
★★ ミシュラン「観光地版」★★
平成27年12月22日、優れた飲食店などを紹介するミシュランガイドの観光地版「ミシュラン・グリーンガイド」のウェブサイトに佐賀県内の観光地の中から、「吉野ヶ里歴史公園」(神埼市・郡)とともに、伊万里市の「大川内山」が栄えある「二つ星」に選ばれました。
サイトは外国人観光客向けで、英語とフランス語版があり、観光地の第一印象や文化財の豊かさ、旅行者の受け入れの質など九つの基準で星の数が決められています。
文化庁は、魅力ある有形・無形の文化財をテーマでまとめたストーリーを「日本遺産」として登録をしています。
平成28年には『日本磁器のふるさと肥前』が佐賀県では初めて認定されました。
肥前窯業圏は佐賀・長崎両県にまたがっていて、佐賀県は伊万里市、有田町、武雄市、嬉野市、唐津市が、長崎県は佐世保市、波佐見町、平戸市が構成市町として含まれています。