伊万里の歴史
1.腰岳と黒曜石
2.伊万里の名の由来
3.山ン寺遺跡
4.かつて存在していた伊万里県
市街地の南側にそびえる標高487mの腰岳(こしだけ)はその流麗な形から別名「伊万里富士」、「松浦富士」と呼ばれ、市民に親しまれています。
この腰岳では縄文時代から良質な黒曜石が産出され、石器の材料として使われていました。
北部九州の縄文・弥生時代の遺跡から見つかる黒曜石の大部分が腰岳産で、遠くは兵庫県の西山北遺跡や沖縄県の中泊遺跡、韓国の東三洞貝塚からも見つかっています。
伊万里という地名が、日本の歴史上初めて知られるのは平安時代の末、もしくは鎌倉時代に入ってからと言われています。
当時、この地方を所領した伊万里氏関係の古文書には「伊万里浦」と記載されています。
伊万里の地名は天平12年(740年)に「藤原広嗣の乱」の平定を命ぜられた紀飯麻呂がこの地に来たことから「いいまろ」が転じ「いまり」と呼ばれたという説と古代条里制「伊万ヶ里」の名残りとする説があります。
~ 松浦源氏創成期遺跡(伊万里市史跡指定) ~
山ン寺遺跡は伊万里市東山代町川内野(かわちの)、文殊原山高原(もんじゅばるやまこうげん)の西端、標高約450m付近にあり、かつて九州西北部一帯を支配した松浦党の党祖が本拠を構えた土地です。
約1万平方メートルの面積があり、中世の山岳寺院を中心とする宗教遺跡と、現代までの信仰地が重複しています。
遺跡の始まりは室町時代と考えられ、源直(みなもとのなおす)夫妻の墓、源久(みなもとのひさし)の遥拝墓(ようはいぼ)、源清(みなもとのきよし)の遥拝墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょいんとう)や、中世末から近世の五輪塔(ごりんとう)群・宝篋印塔群などの石造物、建物跡、土塁(どるい)、石塁(せきるい)、石積み遺構などがあります。
出土遺物は、中国や朝鮮半島、東南アジアでつくられた陶磁器片が多く含まれていました。
海を舞台に活躍した水軍、松浦党の人びとがもたらしたものと思われ、山ン寺遺跡が松浦党にゆかりの重要な宗教遺跡であったことを示しています。
毎年12月1日には山ン寺祭りが行われ、北松浦半島一帯から大勢の参拝者でにぎわいます。
「伊万里県」とは明治初期、わずか9カ月足らず存在した県名です。
明治4年7月、廃藩置県によって佐賀藩などの諸藩は県に変わります。
同9月、佐賀県は人心一新を図る目的で県庁を伊万里に移し、いくつかの村などを統合して伊万里県が誕生しました。
同11月には唐津など4つの県や村などを統合し、現在の佐賀県に対馬を加えた広い範囲が伊万里県となりました。
初代の権令(仮の県知事)は山岡鉄舟が務めています。
山岡鉄舟は勝海舟らとともに幕府三舟と呼ばれ、江戸幕府を支えた人物であることから、伊万里県が政府から重要視されていたことが伺えます。
明治5年9月、県庁は再び佐賀へ移り、伊万里県は佐賀県に改称されました。
その後、他県と合併したりしながら、明治16年5月に佐賀県は長崎県から分かれ、現在に至っています。
なお、佐賀銀行は明治15年3月に設立された伊万里銀行がルーツになっています。